カスタムの原点
思い起こせば、私は幼少期の頃から車が大好きで、よく親には、ミニカーを与えれば一日中ミニカーで遊んでたと言われました。
小学生の頃、通学途中に近所のお兄さんがマフラーの替わった車を運転しているのを毎日見るのが楽しみだったのを覚えています。ブゥーンを少しうるさいマフラーでしたが、大人になったらカッコイイ車に乗りたいなぁと、いつも思っていました。
そして、小学生の時にはミニ四駆が空前の大ブームになり、私はドップリとはまりました。
父親と一緒にミニ四駆を改造して楽しみました。シャーシを改造したり、モーターを変えたり、世界に一台のミニ四駆が出来上がるのが楽しくて仕方がありませんでした。それが自分のカスタムの原点だと思ってます。
中学・高校時代
中学に入り、勉強は苦手でしたが、バレーボール部に入り、今度はバレーボールにもドップリはまり、当時は将来バレーボールで給料稼ぐんだと頑張ってました!
高校もバレーづくしでしたが、高校3年の頃、免許取得ももうすぐとあって、忘れていた車に又興味が沸いてきました。
その時のブームはワゴン車で、エスティマやオデッセィにエアロを付けたり、車高落としたりするのが流行で、いつも車の雑誌を見ては、免許をとったら必ずオデッセイに乗るんだ!と心に決めていました。
そして高校3年間が終わり就職です!
就職に関しては当初とにかく誰でも知っているような有名な会社に入りたいと思ってました。 一応思い通りテレビでCMの流れているような、某製薬会社に入りました。今思えばサラリーマンと言うものを経験しておいてよかったのかもしれません。
某製薬会社では簡単に言えば薬を作っていました。まあ製薬会社なので当たり前といえば当たり前なのですが(笑)最初はそれに満足と言うか、仕事に慣れることに必死でしたね。ただ、頭の中はオデッセイを買たらあれやって、これやって、そんなことばかり考えていました。
高卒の給料なんて安月給なので、最初は兄貴のおさがりのAZ-3に乗っていました。 フルエアロ・マフラーなど少しドレスアップした車でしたので、兄には申し訳ないけど、何とか我慢して乗っていました。(兄よ、許せ)
オデッセイを手に入れることばかり考えながら製薬会社で働き、2年ほどたち、仕事にも慣れてきましたがやはり安月給(笑)
定時が確か17:20でした。そのまま帰ってもお金が貯まらないので、18:00からの、皿洗いのバイトを始めました。18:00~23:00くらいまで、月~金曜日毎日は結構しんどかったです。でもすべてはオデッセイの為だったのでやり抜きました。
約2年ほど会社終わってからバイトと言う生活を続け、やっと車が買えるほどのお金を貯めました。
22歳で約400万円貯金してついにオデッセイを買ったのです。1万km弱の極上車で250万円。さらに300万のローンを組んで400万ほど改造に当てる予定でした。相当気合が入っています(笑)
小学生の頃から好きな事になると、とことんやりつくす性格で、それは今でもずっと変わっていません。
ちょうどその頃、お金もたまりサラリーマンにも嫌気がさしてました。
はっきり言ってつまらない。誰だって出来る仕事のために時間にしばられるとか、特に思ったのが会社は自分を必要としてくれてるのか?
いや、会社は自分がいなくても何とも思わないだろうなと・・・
そこで決めました。人生の転機。
車の改造を自分でやれば安くできる! 鈑金塗装の仕事に転職しようと!!その時23歳。
そんな単純な理由で鈑金塗装の業界に入った訳です。 ちなみに当時の製薬会社の人達とは今でも忘年会をしています。人とのつながりは大事にしています。
とにかく23歳で職人の道を目指します。世間的に言えばすでに遅い。 タウンワークで探した鈑金屋のキャッチコピーがこれ!
ベンツベインター募集!未経験歓迎!
ベンツペインター→カッコイイ→ここしか無い(やはり単純 笑)
○○自動車に面接して、即合格! ○○自動車は本社のある自社工場とヤナセ工場の中で、ヤナセの外注として働くという形をとっている会社でした。
自分が配属されたのはヤナセでした。 これでようやく、あこがれの鈑金塗装職人の門をたたきました。
ヤナセは鈑金・下地・塗装と職人が分かれましたので私は塗装職人の道を選択しました。 とにかく早く仕事を覚えようと、毎日毎日残業して先輩の技術を盗もうと必死でしたね。
朝は先輩より早く出勤して掃除や準備。洗車は手洗いで10~15台。
入社当時は辛かった。 何をしていいか分からないし、失敗ばかりで怒られてばかり。
まずは洗車をとことん覚えました。 手洗い洗車と言えど綺麗にする事はもちろん、時間との闘いでした。
洗車と並行して、塗装のマスキングと磨き作業、とにかく下積みで4年ほど。 毎日怒られ自分には向いていないとかやめたいとか全てにおいて自分に自信がなくなった時期だったかもしれません。
下積時代の時点で27歳。 ただ、自分が気づかないうちに先輩と同じくらいのスピートでマスキングや磨きが出来る事に気がついたのをよく覚えています。
そんな時、一つの転機がやってきました
結婚です。
当時、オデッセィの借金◯◯◯万円、手取り20万ほど。 正直今の仕事を辞めようと思いました。
未だに鮮明に覚えているのが、当時仕事の昼休憩中に奥さんに辞めようか迷っていると相談の電話をしたんです。 そうしたら、
「私も働くから、借金が残っているオデッセィも会社も頑張って!」
涙が出た覚えがあります。 そんな一言で鈑金塗装業を辞めずに頑張ってこられたのだと思います。
「そろそろ塗装やるか!?」
先輩のこの言葉をどれほど待ち望んだことか。
「やります!!」と言った覚えがあります。
初めて塗った部品はシボレーブレイザーのボンネット裏!(紺色) これまたしっかり覚えています。
何回塗れば良いのかよく分からず、先輩が調色した表の分の塗料も裏塗りで全て使ってしまい、塗装一発目で無茶苦茶怒られました。
そんな感じで塗装の仕事がやらせてもらえるようになり、初めて表の塗装をしたのがZ4のソリッド白です! 初めて表の塗装!しかも抜群に上手に塗れてテンション上げ上げで、ようやく自分は塗装屋としてスタートしたんだと実感しました。
順調に塗装の仕事をこなせるようになったところに、また一つの転機が!!
本社に転勤!
正直、ヤナセに慣れていた事もあり、気分的に「嫌だな」と思いましたが、今思えばそれが良かったのかと。
ヤナセはヤナセで販売している車しか直しません(当時)
自分の車も直せません。
本社は外車・国産・GTカー・スーパーカーと色々な経験を積む事が出来ました。
何と言っても、自分のオデッセィのカスタムを本社で作業していたので、やっと自分の車を自分で作業でする事が出来ました。
その頃は週末はオデッセィのイベントに行ったり、洗車したり、もう頭の中は車の事ばかり!もちろん家庭も大事にしていました(笑)
イベントに行くようになって、雑誌の見開きに載ったり、でかいトロフィーをもらうようになり、まさに自分の夢が叶ったんだと!!色々な人の助けもあり、色々な人に迷惑もかけ、オデッセィが完成して涙が出てきましたね。
仕事辞めなくて良かった、って。仕事も、失敗も何度もしてくじけそうになりましたが、失敗も少なくなり、自分に自信が出てきました。
そんな時また転機が・・・
現在の会社の部長から一本の電話が。
以前から現在の会社の社長・部長と知り合いだった事もあり、話の流れは
「新しく鈑金塗装と車販売の事業を立ち上げようと思うけど、良かったら来ないか?」
と。
その時の自分を思い出すと、当時の会社では友人のカスタムをするにも邪魔扱いでしたし、お客さんと直接接する事もなく、ただ車を直すだけの毎日。直してもこの修理はいくらで直ったんだろうとか疑問に思ったり。
何だか人と接することが好きな自分にはつまらないというか何か物足りなさを感じていたのです。
でも、新しく鈑金屋を出すと言う話に沢山の不安もあり、一ヶ月ほど迷った気がします。
そんな時、一人で行くのは不安だからと、当時ヤナセで働いていた水谷さんを誘ってみました。
水谷さんもカスタムが好きで、自分のオデッセィを深夜まで手伝ってくれたりして、一緒に仕事したら楽しく出来るんじゃないかって。
水谷さんも一ヶ月ほど考えたんじゃないかな。
水谷さんの返答待ちの間も自分も沢山色々なことを迷いました。
まず、お客さんがいない。
友人を頼ってもそんな仕事ないだろうし。
一ヶ月ほど経ち、水谷さんからの返事は
「俺もヤナセを辞めて一緒に新しい所に行く」
自分29歳4ヶ月 ピットワンが始動!!
期待半分、不安半分
平成18年9月1日 (株)極東へ入社!! 水谷は1ヶ月遅れで入社。
とりあえずまだピットワンのお店がありませんので、極東がメインで行なっているガソリンスタンドの手伝いから・・・
ん???
「なんでガソリンスタンドの手伝いを・・・。」と思いながらとりあえず店が出来るまでと。 ガソリンスタンドの手伝いをしながら中古車販売の研修やら色々と勉強して半年ほど・・・。
すると、建築予定の土地で鈑金塗装の営業の許可が下りないと・・・。
その後3年半ほどガソリンスタンドの手伝いばかりの毎日。 その頃の気持ちは、水谷さんに申し訳ない、せっかく身につけた技術が3年半やらないとどうなるか、という今後の不安。 このままガソリンスタンドの手伝いなら辞めよう、とか色々考えていました。
人生で一番腐っていた時期でした。
そんな中、会社が倉庫を購入!!車が3台ギリギリ入るような倉庫でした。この倉庫で鈑金塗装を始める事に。 塗料販売店を呼び、ビニールブースや塗料を購入し、ピットワンがようやく誕生しました。
が・・・誰もお客様がいません・・・。
まずは仕事を取らないと。
スタンドの手伝いをしながら、スタンドのお客様に声を掛け、「バンパーの傷を9800円で直しませんか?」という感じで仕事を探す状況でした。 が、全く仕事が取れません。
仕事がありませんので、結局スタンドの手伝い。 たまに仕事が入ると自分か水谷さんのどちらか倉庫に行って塗装しました。 この頃に一番思った事。
仕事が無いのが辛い。仕事が欲しい、塗装がしたい。
この頃のピットワンの1ヶ月の売上は10万〜50万円 一台仕事の依頼が来ると本当に嬉しかった。
この頃が一番仕事のありがたみを感じました。 スタンドの仕事を手伝いながら、仕事がある時は倉庫に行って塗装。 そんな微妙な感じで1年ほど・・・。看板の無い板金塗装工場でなんとか頑張りました。
この頃も今思えば貴重な体験でした。 看板の無い工場に大切な車を預けてくれる友人のありがたさ。 大事な体験が出来た工場でした。
そしてまた転機が・・・33歳
岐阜県笠松に新規ガソリンスタンドオープン。 そこは居抜きでガソリンスタンドの横に倉庫があり、移転する事になります。
移転先の倉庫は念願の塗装ブース(スパネージ)が入り、後3台入る倉庫でした。 ピットワン第2のスタートです。
相変わらず仕事が無くなんとか友人やショップの車をカスタムしたり、趣味程度の仕事しか出来なかった為、ガソリンスタンドの手伝いをしながらの塗装といった感じでした。
ただ、そんな仕事内容でも自分と水谷さんなら他に負けないクオリティの仕事が出来ると思って、安いバンパー補修の修理でもクオリティ重視で頑張っていました。 カスタムに関しても、友人のショップからカスタムショーに出すという事で塗装させてもらい、展示する事になったりと、少しづつ自分の自信を取り戻す仕事が出来るようになりました。
すると、一般のお客様の修理依頼が来るようになったり、大手中古車屋の仕事を受けるようになったり、スタンドの手伝いが出来なくなりました。
やっとまともに鈑金塗装の仕事が出来る。 売上も台数も順調に増え、今の工場では狭いし、自分と水谷さんでは仕事がこなせない台数になってきました。
それから半年、2014年4月 ピットワン新工場完成
全く仕事が無く、スタンドの手伝いをし、くさりかけていた時期を乗り越え、当初自分と水谷さんだけだったピットワンが今は9人のスタッフ。
当初とは環境から何から何まですべて変わってしまいましたが、絶対に変えたくないのは、品質第一、お客様の満足を得ること。 そのためには実は自分たちが変わらなくてはならないのかもしれません。まだまだ努力の日々は続きます。
でも、何事も一生懸命諦めず、夢を追いかけることを忘れないで良かった。